著作者性が抱える自己矛盾

東京オリンピックのロゴに関して,盗用か否かが問題となっている.
http://www.sankei.com/world/news/150807/wor1508070008-n1.html

グーテンベルクが印刷技術を発明する以前,人々は,それが誰によって書かれたものかに関心を払わなかった.創作は社会的な奉仕でもあり,創作物に触れるためには,多大なコストを払わなければならなかった.

コピーライトという概念は,複製技術と消費ルートとの発展によって生まれた.「それは私のものである」という所有の主張である.

その複製技術は,コピー機の発明を経て,今では,音楽でも絵画でもプログラムでも,マッシュアップすることで即時的に創作できるようになった.

このように,グーテンベルクから生まれた複製技術がコンピュータの出現によって著しく発達した結果,人々は,”私的努力によって創作することが重要なことだ”とは考えなくなった.創作は個人の社会的奉仕からチームによる活動,すなわち,既存のアイディアのマッシュアップという仕事に引き渡された.

コピーライトという所有の主張は,それを生み出した複製(マッシュアップ)の技術の発展によって,創作における著作者性,すなわちオリジナリティーを否定するという自己矛盾を抱えている.

ところで,「本当のオリジナリティ」というものは,はたしてあるのだろうか.本当にオリジナルな知的活動があるとすれば,それは,一般には,格子に施錠された特定の病室の中に見出されるものであろう.

今,ここに書いている文章も,完全なオリジナルな考えではなく,所詮は”誰かの考え”の寄せ集めに過ぎない.脳は社会的なものである.誰かの考えに影響を受けずにはいられない,という以前に,人は積極的にお互いの考えをコラボレーションしようとしているのである.人々は,社会を維持するために,協調し,お互いが信頼できるように,経済活動というものを発明し,ミラーニューロンは発達してきた.

しかし,社会的なイノベーションの多くは,特異な思考から生まれ,パラダイムを変えてきた.社会というシステムが停滞しないためには(システムの停滞とは,すなわち”死”である),変化が必須の条件である.

コピーライトという”所有の主張”は,社会システムの停滞を加速しているのかもしれない.

手続き記述と構造記述

「料理は理系だ!フローチャートで解説した料理本が「分かり易い」と評判に!」という記事が目にとまりました.

こちらです
http://entermeus.com/146590/

肝心の「豚汁の作り方フローチャート」は下記のようなものでした.

豚汁の作り方

ところで,これって,本当に”わかりやすい”でしょうか?

一般的に,このような手続き型の記述は「その通りやればできる(かもしれない)」けど,「わかりやすい」とは言えません(認知科学を学んだ方なら知ってますよね).

「わかりやすい」と思えるのは,「わかりやすい気がする」からなのです.なぜ,”わかりやすい気がする”のかと言えば,人の一般的なコミュニケーション手段である会話が運動性言語,つまり手続き型表現であるからです.ちなみに,運動性言語はブローカー野が担当していて,運動機能に近いところにあります(早い話が,人は,運動神経でしゃべっているようなもの).

一方で,”理解のための言語”はブローカー野から離れたウエルニッケ野にあり,これは,視覚野と1次聴覚野が交わったところにあります.つまり,視覚でとらえた実体構造に対して意味を付加することで理解が得られるのです.

豚汁の話に戻すと,フローチャートのような手続き記述は運動的にできるかもしれないのですが,なぜ,そのような作り方になるのかを理解するためには,対象を構造的にとらえる必要があります.

対象を構造的にとらえるモデリングの手法としてはデータフローダイアグラムなどがありますが,どちらかというと,システムの仕様を描くものです.

豚汁の作り方のような人の生産的活動を構造的に描くには,作る過程によって変化する対象物の状態の変化を表現することなどが必要です.

そこで,今回皆様にご紹介するのは(おや? セールストークになってきたぞ??)豚汁の作り方も構造的に表現することができる「PReP (プレップ)モデル」になります.

こちらが,その記述結果です.

豚汁の作りかた(PReP)

「火の通りにくい野菜を先に煮込む」といった手順の意味がわかりますでしょうか.
また,図の左側を見ていただくと,調理をする人のインサイト(本音)が吹き出して書かれています.豚汁を作るときのリスクが,このような作業者のインサイトを考慮する必要があります.

さらに,概念を構造的に記述すると,描いたプロセスモデルは,データモデルにつながり,システムスコープと要件定義書を出力することができます.
必要な道具(システム)や,それらの求められる機能が一覧いただけると思います.

豚汁の作りかた(システム要件)_ページ_1

 

この,システムスコープ・要件定義書の自動出力は,Microsoft のVisio(ver. 2013)のAdd-in機能を利用して実装してみました.

ご興味のある方は,こちらへ!

PReP modelとツールに関するお問い合わせ

(宣伝でした)

 

大学で教えるということ

そう言えば,2006年に東工大でPBL(当時はそうは呼んでいなかった)を始めて今年でもう9年目.来年で10年!(歳とる〜)
最近は,猫も杓子も(おっと,失礼)PBLだの,(形だけの,おっと,失礼) デザイン思考だのワークショップだのをやっているので,ちょっと辟易してきたなか.

辟易してきたというよりも(ちょっと真面目な話をすると),「人は,今まさに学んでいる人から多くを学ぶ」つまり,教える側が,教えていることを”すべて知っている”と(本当は知っていなくても,そのような構えが少しでも出ると),学ぶ側は,教師が持っている「正解」(そんなものは無いのですが)を待ってしまい,「自分が学ぶ」という姿勢から離れてしまうのです.
生徒は正直です.
そのためにも,教える側自身が「生徒よりも一歩先んじて,今まさに学んでいる」という状態に常にいなければならないのだと思います.

私が大学1年の力学の授業(物理学科でした)で印象的だったのは,玉木英彦先生によるゾンマーフェルトの力学(300ページくらいの)でした.昨日まで高校生だったのに,いきなり,静力学です.ハミルトニアンです.まったくわけがわかりませんでした(あ,でも,試験で成績「A」でした(自慢です)).

玉木先生は「わかりやすく教えよう」なんてことはみごとに無かった,授業はぐんぐん進んでいきました.
それまで,高校の物理だけは得意(駿台模試でもいつも全国で5番以内(自慢です))だったので「物理なんてこんなもんさ」とたかをくくっていた私にとって,大学の物理のあまりの難しさ,というか,次元の違いに大きなショックを受けました.それとともに,自分が知っていたと思い込んでいた「物理」などというのは,爪楊枝の先くらいのものだと悟ったとき,その先にある物理学の世界がとても広く見え,感動したことを今でも強烈な感情とともに記憶にあります.

今,振り返ると,何を教えたら良いか分からず手探りで進めていた1〜3年目くらいときの授業(大学院のソフトウェア開発演習という授業で何をどのように教えるべきか悩んでいたとき)が,そのときの学生の反応を見ても今より良い学びの場を作れていたように思えます.

「初心不可忘」

さて…

 

 

参加型デザイン(SS2015 WG-SS ポジションペーパー )

6月15日〜17日に行われるソフトウェアシンポジウム2015(SS2015)のワーキンググループ-SS(ソフトウェアと社会)へのポジションペーパーを書いたので掲載します(おそらく,WG参加メンバのみへの公開となるため).

今年は,1999 年にドイツで開かれたワークショップの報告書 “Social Thinking – Software Practice” を題材に,「第一部 “Deconstracting” 所収の 4 つの論文を読み,その中で 自分がもっとも 興味を惹かれた論文についての感想または批評を Position Statement として事前に提出すること」ということで,James M. Nyce and Gail Baderの”On Foundational Categories in Software Development”を読んで,感想と問題提起(といっても,議論の視点のレベルですが)を簡単に書き留めました.


On Foundational Categories in Software Development
James M. Nyce and Gail Bader

この論文で取り上げている参加型デザイン(participatory design: PD)は,その発祥を1960年代の北欧に遡るようです.
マネジメント層と現場で働く人たちの立場が大きく乖離し,身分の差が著しかったスカンジナビア半島で起こった労働者運動がきっかけとなり,利害関係者を平等に巻き込みながら合意形成を図る,平等主義と民主主義とを重視する手法が模索され、それが参加型デザインと呼ばれたそうです。
この北欧での参加型デザインと一見すると似ている活動として,北米での,User Experienceアプローチがあります.
北米のモチベーションは北欧とは違い,80年代に入って,コンピュータの民生化(AppleのMacがきっかけ)に伴い,商品としてのソフトウェアをより多く得るための手法として生まれました.
ユーザが納得する商品を作りたい,それならば,消費者ををデザインの場に招いてワークショップなどを行い,一緒にデザインをしていったらいいのではないか,というアプローチです.
昨今,日本でも,「デザイン思考」と称するクリアイティブワークショップが産官学をあげて流行(文化的な背景はなく,北米の西海岸での第?次起業ブームの一周遅れの,あくまでも「流行」)のようです.

仕事柄,「参加型デザイン」に近いところにいるのですが,あらためて本論文を読んで,「問題を解く」ということの,もしかすると,かなり根本的・本質的な視点について,もう一度,きちんと考えなくてはいけないのではないか,と思いました.
「我々は,何のために,何を解こうとしているのか.何を解くべきなのか.解くことの社会的な意味は何か」ということが,本論文でも(結構しつこく)述べているように,社会・文化的な価値観や,当該文化でのコミュニケーションのあり方に大きく依存しているということです.
とすれば,なおさら,「我々(日本人)は,何のために,何を解こうとしているのか.何を解くべきなのか.解くことの社会的な意味は何か」を考える必要があると思いました.

受託開発では,解くべき「問い」はクライアントが与えてくれ,開発する側は,問いに対する「正解」を出せば良いという構図ですが,「定義可能な解くべき問いが存在しているという前提」,そして,それに対して「正解」を求めるということ自体意味が無いということは,誰もがわかっていることだと思います.
その一方で,弁証法的アプローチは,その背景となる社会・文化,そこに属する人たちのコミュニケーションのあり方に依存するというのは,とても重要な視点ではないかと思いました.

参加型デザインが成功するための条件として,公平な議論を可能とする文化的下地の必要性があると本論文では述べており,北欧の社会文化基盤が,それを可能としているそうです.
一方で,北米の文化は,売るために相手を説き伏せるための議論が価値があり,「真実(事実ではなく)」は何か,「言葉よりも実行で示すこと」に対する価値観(インディージョーンズを思い出しました)が北欧の価値観と大きく対比すると述べられています.
では,日本の価値観は何か?

可能性が感じられた事例として,エスノグラフィー手法によって事実(「真実」では無い)をみんなのものにする,ということが,公平な議論による北欧型の参加型デザインを成功に導く方法として興味を持ちました.

 

以上

 

 

設計とカタチについて

「ソフトウェア設計の本質は、開発過程全体で用いられる一貫した概念構造体の記述を実現することである。」(フレデリック・ブルックス, 人月の神話, 1975)
ブルックスが言っているように、「設計」とは、概念とその構造の定義である。そして、問題空間で定義された概念構造を用いて、要求空間と機械との関係を記述することである。
つまり、設計の本質をなす概念とその構造は、「どんなものを作るのか」を考える世界で定義され、定義した概念を用いて、「何を」と「どうやって」をつなげることになる。

とろこが最近、どうにも片付かないキーワードが引っかかっている。「カタチ」である。カタチが先行するということである。カタチ、すなわち「どうやって作るか」が先行するということは、「それが何か」は後から説明されるということである。
例えば、岸田からの引用。
「ソフトウェア以外の設計、たとえば建築設計や家具の設計においては、「どうやって作るのか」以前に、「どんなものを作るのか」すなわち意匠の設計がきわめて大切だと考えられている。
(中略)
構造化とは機能モジュール化のことだという解釈が一般に広く行き渡っているようだが、それは誤解である。プログラムが対象とする処理の意味論的機能のモジュール化ではなく、それとは無関係な意匠の構造化であった。そのあたりが、SASDやOO(オブジェクト指向)の方法論と構造化プログラミングの思想とを区別する本質的なポイントなのである。
シドニーのオペラハウスの設計は、「建物をどうやって作るか」という発想から生まれたものである。「概念設計」というコトバから連想されるのは、ソフトウェアの設計においてそうした「意匠」の設計とはいったいなんだろうかということである。」(岸田, ソフトウェアグラフィティ, 2012)

さらに、「カタチが先行する」ことを明快に述べているのが島田である。
「わかりやすいコトバで言えば「カタチを先に考える」あるいは「カタチを独立して考える」ということである。機能の分析や構造の選択の結果として、かたちが決まるのではない。かたちが選ばれてそれから構造や機能との調和が図られる方が、おもしろいものができるということを考えているのである。」(島田 出典を忘れた…)

ひとつのヒントとしては、意味の身体性という視点がある。
脳科学者である月本は、モノは、身体、もしくは身体の行動に対する機能(システムのアウトプット)によって意味を有するとしている。例えば、椅子の場合。われわれの身体が、モノを椅子として現出させる。先にシステムがあるのではなく、身体が求める機能が先にある。システムの意味は、身体性に基づくということである。つまり、システムは、われわれの身体、それに基づく行為や欲求によって意味付けされてのちに、われわれに対して立ち現れる。すなわち、身体が、世界の意味を作り出しているらしい。

「たとえば椅子とは何であろうか。あるものが椅子として意味を持つのは、椅子の材質とか色とかによるのではない。椅子の材質が木であろうが鉄であろうがプラスティックであろうが、通常は固体であればなんでもいい。色も同様である。赤であろうが茶色であろうが何でもよい。形も同様である。このように、材質、色、形等で椅子を定義することは出来ない。あるものが椅子かどうかは、ひとえにそのものが椅子として機能するかどうかにかかっており、椅子として機能するかどうかは人間の身体に関わっている。(中略)すなわちわれわれの身体が、あるものを椅子として現出させるのである。われわれの身体が、路傍の木の切り株を椅子として現出させるのである。」(月本洋, 日本人の脳に主語はいらない, 2008)

「設計」の英語は「Design」である。設計が概念とその構造の定義であるという理解の一方で、Designは「カタチ」であり、意味に先行するものとして立ち現れる。意味が先かカタチが先か。二つの間に「身体」を入れると、身体がカタチと意味とを架橋することになる。
カタチが身体からの要求で意味として出現するのであれば、設計をさせているのは、我々の身体、もしくは身体性なのかもしれない。

 

2014年度のPBLがはじまりました

今年のシステム開発PBLは,東工大が5チーム,奈良先端大と大阪芸大合同が3チーム.これまでになく大人数でのスタートです.

合わせて8チームのシステム開発を,適度に失敗経験を織り込みながら,楽しい学びの体験となるようにサポートしていきたいと思います.

NAIST Team01 NAIST Team02 NAIST Team03

 

マンガ駆動設計絵巻

奈良先端大と大阪芸大とのコラボレーションによるシステム開発演習授業の成果展覧会で発表する「マンガ駆動設計絵巻」です。

今回のシステム開発演習では上流工程にマンガ構成論の技術を適用しました。その実際の適用結果(実際の上流工程プロセス)を説明したものが「マンガ駆動設計絵巻」です。

今月の20日(月)から24日(金)まで、大阪芸術大学の11号館で展示しております。

マンガ駆動設計絵巻

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