科学と宗教とプロセス改善と

「修証一如」
修行とさとりはひとつ(一如)である。

今年のSS(ソフトウェア・シンポジウム)2012は福井で行われた。SRAの岸田さんから、SSにあわせて頭脳警察のPantaさんのライブがあると聞き、ここ数年足が遠のいていたSSに久しぶりに顔を出した。

福井市は、福井の語源と言われている井戸を敷地内に持つ福井城を中心とする城下町であり、城下町特有のレイアウトを描いていた。

福乃井
福井城内にある井戸「福乃井」

 

自前の地理の疎さを図らずも露呈してしまうが、かの禅寺、永平寺がJR福井駅前からの直行バスで20分程度の距離にあることを、シンポジウムで配布された観光案内マップ上で発見。

今回のシンポジウムでは、プログラム委員長のニルソフトの伊藤さんのご尽力によって、永平寺の西田正法氏の特別ご講演を頂けるのであったが、その理由がやっと飲み込めた(という自分の勘の悪さを自省することもなく、特別講演をせっかく聞くのだから、まずは自分の目で永平寺とやらを研究してみないと、と自主ワークショップ開始… )。

永平寺は、観光客にも非常に厳しい(例えば、スカートの女性は見学お断りとか)という話を聞いたことがあり、クローズドな雰囲気かと思いきや、とても開放的で気持ちのよい気が充満しているお寺でした。

永平寺
永平寺は、檜の香りが印象的であった

 

閑話休題。
西田氏のお話し。

「修証一如」なのだそうである。つまり、修行が手段、さとりが目的ということではない。”修行すること自体が、すなわちさとりである”ということ。

悟りと修行とが同じであるという禅の構えは科学のアプローチと通じているなぁ、というのが、西田氏のご講演を聞いて印象に残ったこと。

「科学」は、科学者が捕まえようとしている真理を指しているのではない。真理を捕まえるそのプロセス自体こそが科学である。だって、Factは目の前に立ち現れるけど、Truthなんてものには到達できないんだから(弁証法というよりも、インディアナ・ジョーンズ博士の”Archaeology is the search for fact, not truth.”という台詞の方が印象深い)。

では、何故、科学者は到達できない真理に向かってそのプロセスを粛々と、というよりも確信を持って歩んでいる(歩める)のかというと、それは、”真理はすでに解かれていて、この宇宙に確かにある”という確信があるからである。その確信があるからこそ、科学者は安心して到達できないであろう真理を解くプロセスに自らを放り込める。そして誰によって真理が既に説かれているのかというと、この宇宙を創り出した”誰か”である。その意味で、科学は宗教の構造に通じるのである。

ところで、さらにもう一歩。

「家庭厳俊不容陸老従眞門入(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)」
「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来(さやくほうかん、さもあらばあれ、ぜんざいのいっぽをすすめくるに)」
これは、永平寺の山門の左右の聯に書かれている言葉。

名誉も財産も何でも意のまま自由にすることが出来た陸老においても、出家せずものは、門をくぐれないという意味(だそうです)。ちなみに「出家」とは、名誉や利益をあげることを手放しているということだそうです(世の中の人すべてが出家すれば、世界は平和になると思いますよね)。

永平寺の山門
永平寺の山門を内側から見たところ(ここから入ってはダメという観光客用の小さな看板が置かれてあった)

この山門を結界として寺の中入ると、そこでは、修行とさとりがひとつの場となっている。悟りはすでに開かれており(お釈迦様がすでに開いている)、修行という関わりによって生まれる変化そのものがさとりである。
つまり、”活動による差異そのものがさとりとなるには、さとりがすでに開かれている場に入ることが必要”という構造。これは、真理が既に解かれている場(宇宙)にいるからこそ、解くプロセスに自らを放り込むことができるという科学の構造と同じですね。

これを組織にあてはめてみると、改善や改革が成功するためには、すでに改善や改革が成功していなければならないということ。つまり、改善や改革が成功するための唯一の条件は、すでに改善や改革が成功しているとことというのが、隠された真理のような気がしました。

『説明しなければ分からないということは、説明しても分からないということだ。』(村上春樹, 1Q84, 第2巻, p181)