Back to the Future

『科学と技術がもたらした変革のはざまで、おそらくすべての国のなかで日本だけが、これまである種の均衡を見出すのに成功してきました。このことはたぶん何よりも、日本が近代に入ったのは「復古」によってであり、例えばフランスのように「革命」によってではなかったという事実に、負っているのでしょう。』レビィ=ストロース

「悲しき熱帯」(中公クラシックス2001年版)によせられたレビィ=ストロースのてばなしともいえるメッセージは、現在、岐路に立つ日本人が、立ち止まり、そして歩むべき路を示唆しているように思える。もちろん、レビィ=ストロースの語る「復古」とは、浅薄な日本的国粋主義への共鳴などというものとは、およそ無縁なものである。

西洋においては、自然(一番の自然は、人体である)は管理可能な対象であり、革命は、あらたなディシプリンを浸透させ、過去を断ち切る。一方、日本においては、過去を否定し新規のレールを敷設するのではなく、ターニングポイントに行きあたったときに常に「われわれとは何であるのか」を問いなおすことによって、過去と変革との均衡ポイントを見つけてきた。

「われわれとは何であるのか」ということは、ひとつには(そして、重要なこととして)労働観として認識される。日本人にとっての労働は、人も含めた自然とどのように折り合いをつけるかということであった(一方で、西洋のそれは、自然を征服し、管理するというものである)。

戦後、我々は、都市と農村との折り合いを模索してきた。しかし、3.11のあとの原子炉事故は、都市と農村とが年月をかけて折り合いをつけてきたカーテンを一気に引き払い、両者の間に横たわっていた深淵を我々に見せつけているように思える。今の我々は、ベールが剥ぎ取られて露わになった深い淵に立ち尽くし、そして、その淵の前に立って、「われわれとは何であるのか」を、ふたたび考えているのかもしれない。そして、(強制的に、もしくは自ら進んで受け入れてきた)都市に代表される西洋の労働観に対して、日本人本来の労働観の再認識が、いま、まさに求められているのではないだろうか。

日本人の労働観の再認識と、科学技術が自然とどのように折り合いをつけるべきかを、実践を通しながら考えてゆくことをテーマにした、プロジェクト型のシステム開発演習授業を構想している。

yasushi_tanaka

有限会社ケイプラス・ソリューションズ代表,東京工業大学 特任准教授,大阪芸術大学 客員教授,奈良先端科学技術大学院大学 非常勤講師,博士(工学),CMM正式リードアセッサー(非更新 笑)

Facebook Twitter